賢さについて

賢さとは何だろう。

 

僕は賢さを、便宜的にではあるが、論理力と想像力と定義して今日を生きている。

はて、論理力と想像力とは何か。

 

論理力とは、論理的に言葉を用いられる能力のことである。論理力は僕らほとんどが先天的にもっているものだ(と信じたい)が、これをうまく使いこなせていない人間は地球にけっこういると思う。いま、僕の近くにはあまりいない。

 

想像力とは、ものを想像する力である。これがけっこう難しい。想像力とは、ほとんど知識と言っていいかもしれない。知識がなければ、想像は非常に困難になる。だが、想像力とは知識だけではない。知識による想像(この場合、一般に「想像」という言葉を充てないだろうが)は、既存の枠組を飛び越えられない。

 

人並以上には、差別という事柄について想像しているつもりなのだが、これはほんとうに厄介な問題であると思う。差別の消去を達成するには、想像と実践の二つのプロセスが存在する。そして想像の段階で躓いてばかりで社会はなかなか前進(果たして「前進」か?)しない。

 

かつて(?)同性愛が各地で許されなかったのは何故か?完全なる想像力の欠如であると思う。レイシズム、セクシズム、エイジズム、(避けられない性質に基づく)差別のあらゆるものが想像力の欠如によって生まれている。

 

想像できることは、賢さであると信じる。が、こと差別に関して駄文(くだらない自己矮小化。やめられない)を連ねるのであれば、実践は賢さによっては為され得ない。それが差別であると想像できてはいても、差別者を辞する実践の過程は、なかなかに険しい。これは視点によって善悪の概念が異なるからである。被差別者からとって差別は悪でも、非被差別者にとってはそれは悪ではなかったりする。僕の善悪観は、当事者でない限り完全に中立である(と信じている)ので、善と悪の両方も存在していない。ヘンリー・ジーキルもエドワード・ハイドもいないのだ。ハイドの不在が、差別を生む。

 

差別の種類は、ほとんど無数に存在している。これら全てを消去することはおよそ不可能であると思う。少なくともいまの自分には想像がつかない。やはり賢くないのかもしれない。ただ、獲得を避けられない性質についての差別に関してだけでも、僕はできるだけ想像力を駆使してみたいと思う。皆さんは、お好きに。非当事者(少なくともそう認識しているひと)は狡い。

 

賢さというのもあればあるほど善的だというような要素ではないと思う。ここで言う「賢さ」とは、僕の恣意的な好感度を測るパラメータに過ぎない。

 

 

 

曖昧な言葉

 

世の中は曖昧な言葉で満ちている。

 

例えば「文学」はどうか?

僕にはこの言葉の意味がさっぱり分からないのでとても困る。

 

「文学」とはおそらく「小説」であろう。そう思った。

とは言っても、伊坂幸太郎は「文学」なのか?アガサ・クリスティは「文学」なのか?

 

違うと思う。理由はわからない。答えも知らない。

 

伊坂やクリスティには「娯楽小説」というラベリングがある。彼らの小説は「文学」ではなく「娯楽」なのだ。みんなそう言うのだ。みんなが言うのなら、きっと間違いはないだろう。

 

「娯楽小説」と対をなす概念として、「純文学」という言葉を僕は知っている。「純文学」というラベルで、ドストエフスキーフランツ・カフカが括られるだろう。村上春樹だって、こっちで括られることが多いかもしれない。

 

それで、両者の違いは何だ?

 

難しいことはよくわからないし、簡単なことだってよくわからない。「娯楽小説」と「純文学」の違いなどわかるわけがない。強いて言うなら「純文学」のほうが高貴な感じがある。含蓄に富んでいるような。

 

この指摘はある程度正しいと思う。あの偉大な小説家(らしい)ヘミングウェイだって氷山理論を唱えている。小説は氷山のようなものであるそうだ。氷山の大部分は海面に隠れていて、見えない。

 

なるほど。いい小説には、きっと含蓄が必要だ。

 

では、どれだけ含蓄に富んでいれば「娯楽小説」は「純文学」になりうるのか?この疑問を解消するにあたって、小説における含蓄というものを定量的に計測しなければならない。

 

「失礼なことと承知した上でお聞きしますが、先生はこちらの作品にどれだけ御含蓄をなさいましたか?」

 

小説のなかのいわゆる含蓄の数を知りたければ、各作家にこう尋ねてまわるほかないだろう。これはなかなか骨が折れる。

 

ところでさっきから含蓄、含蓄とうるさい自覚があるのだが、さてその「含蓄」とは一体何だ。

 

文学部では、作家・作品の歴史的文脈を学ぶことができる。最も実学から遠い学問のひとつだろう。例えば、村上春樹は『1Q84』を地下鉄サリン事件から着想を得て描いた。それで、作品のなかに「宗教団体」が登場する。こういうのも一種の含蓄だ。ほかにもたくさんの種類の「含蓄」というものがあるのではないかと僕は少なからず疑うが、もちろんその真偽は知らない。

 

ただ、ここで僕がきちんと取り上げたいのは、「思想」という含蓄だ。思想とは、僕が思っていることであり、みんなが思っていることでもある。これはひとによって大きく異なる。この思想という含蓄が、小説を純文学たらしめるのに有用なものではないか、となんとなく感じるのだが、どうだろう。

 

小説と切って離せないものとして、「物語」がある。どんな小説にも物語があるし、映画だってそう。僕らが歩んできた過去の歴史も物語である。たくさんの物語がある。

 

この「物語」と「思想」を重ねたものが、「純文学」という芸術なのだ、とここ数ヶ月くらいの僕はそう考えている。「思想」のアレゴリー。「思想」を如何にして「物語」に融解させるか。小説とは、そういう芸術である。つまり、「娯楽小説」と「純文学」の違いは、この「思想」の有無にある、と言いたいのである。

 

とはいえ、思考しない人間は殆どいない(もちろん伊坂も思考している)のだから、程度の差こそあれ作品に作家の思想は反映される。ではどうやって両者を区別するのか、と先の疑問に立ち返るわけで、これはもう何とも答えようがないので僕はほんとうに困っている。作家が作品を描くときに「思想」を寓話化しようと意識したのであれば、それが「純文学」なのではないか?と思ったりもするが、断言するにはちょっと微妙か。

 

僕は、けっこう村上春樹を気に入ってるのだけど、それは彼の小説の「物語」が好きだから。彼の「思想」など殆ど読み取ったことなどないし、海面の下に潜んでいる思想とやらをわざわざ精読してまで読み取る気もあまりない。

 

小説に組み込まれた作家の思想なんてものを正確に捉えようなどと馬鹿げたことはあまり考えないほうがいいと思う。どうしてもそうしたいのなら、エッセイを読んだほうがまだマシだ。読み手は思想のことなどそんなに気にしなくていいのだ。暗に、曖昧に、感じ取ることができればそれでラッキーだ。

 

書き手は思想をどう扱おう。書き手の抱えるややこしい思想をどうしても表現したい、みんなにわかってもらいたいという、その表現したい気持ちが高じて執筆する、というのが文学執筆の正しいプロセスだと思う(無論、正否はない)。わかってもらうために、思想を物語に取り入れる。読み手が正確に理解できなくてもいい、少しでも自分の考えていることを伝えたいし、共感させられるともっといい。